教材

教材 官公用地

  小学校や中学校の敷地ほどには鮮明ではないが、他の公立や私立法人の施設の敷地も示唆に富んでいます。

  「岡山県農事試験所」(1924年当地に/幾度も改称)のことは、「踏切」 の項でも述べていますが、その元の敷地は示唆に富んだ形を遺しています。  まず、今のテーマにおけるこの敷地の重みは、「農事試験所」 ですから、積極的大改修をしない限り、既存の水路畦道を保存している可能性が高いことです。  敷地は今は南が「岡山放送」、北側が「こどもの森」 に占められ、しかも、両者の間を市道・万成国富線が走り抜けていますが、全てを大きく含む長方形を描くと、東西が2丁/南北が3丁の地形が得られ、結論的には丁度6「坪」分の面積を占めていると理解されます。
  地図を見れば明らかですが、面白いことに、実際の敷地は欠損があって、『達磨落とし』 の積み木のように三つの長方形が、3段、に微妙にずれて繋がっています。  積み木の一段ずつはおよそ110mの厚さ(南北幅)を持っています。

  私設だが典型的な例は、現・清心女子大学でしょう。  ここでも拡張の歴史があったようですが、現在の敷地の幾らかの欠損部分を仮に補うと、丁度2丁四角の4 「坪」 に収まりそうです。  「欠損」 と書いたが、その向こうには 「観音寺川用水」 と 「伊福」 の古い村があって、拡張は原初から望むべくもないのです。  なお、この学校の基は、私立・岡山女学校[M19=1886年創立 1929年現在地へ]とされており、大正10年の岡山市の古い書類では「倉紡用地」となっていて、昭和13年の市販市街図では、南半分の2 「坪」 を占めていたように読み取れます。

  20世紀の終わりに 「国立病院」 が移転しましたが、旧・南方小学校の北に接する、その跡地は2「坪」弱です。  この地には、戦前には 「岡山工学校」 が置かれており、学制の変更や 「原初・国立病院」 との敷地交換などの経緯があるようですが今は深追いしません。  この敷地を見ると、西の 「西川」 との関係を良しとすれば、東辺が15~20m引き下がっていることになります。  東西のラインはほぼ理解できるのですが、東西ラインに関して、江戸期の街づくりの影響を受けているとしておきます。

  新しい創設の例ですが、「岡山商科大学」 と、南に隣接する 「京山中学校(1974年分離独立)」 の敷地は、いずれも東西ラインは用水の影響を強く受けています。  南北線も既存の畦道(&用水)に支配されているようで、特にそれぞれの西辺の相互の関係は 「ゲージ」 的にも充分説明できそうです。  練習問題に残しておきましょう。  現地踏査するのも面白いでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教材 反面教師としての官公用地

  「官公の敷地」 は、現代の我々が条里遺構を探るときに援けになってくれるかというと、否定的な例も少なくありません。

  その典型例は、江戸期の 「城下町形成」 です。  幸いなことに、岡山の城下町は、膨大な絵地図が 「池田家文庫」 として、岡山大学中央図書館に継承されていますから、当時の状況は容易に解明できます。  特に、町並みが明快な地域は 「番町」 で、これも幸いなことに、この地域が先の戦災(大空襲)の被害が軽微であったので、保存状態が良好です。
  しかし、直ぐに判ることは、ここでは町並みの 「ゲージ」 が違うことです。  JR山陽本線の 「南方ガード」 以北は必ずしもメッシュは明快ではありませんが、それの読み解き結果とも整合性が悪いのです。  狭義の 「番町」 の更に西側の地域(県道美作線と西川に挟まれた地域)では、メッシュに関しては 「緩衝地帯」 になっているようです。

  もう一つの困難要素は、最大の 「官」 としての旧・軍用地の問題があります。  明治の40年代初頭には、津島地区では既存の大きい開発はなかったはずで、条里遺構は遺されていたはずなのに、これまで検討したところでは、条里ライン(水田の畦道)を敢えて無視した造成が行われています。
  直ぐ判る例は、現・県営グラウンドの東と北とに貼り付いて走る、現・53号線です。  まず、方位を意識していません。  また、取り付け位置も、多分既にあった道に逆らっているように思えます。  勿論、戦後も含めた拡幅があったわけですが、それを斟酌しても不自然なところがあります。
  第二の例では、「市バス妙善寺終点」 付近(西)を南北に走る(バスのラインが T 字接続する) 「古称・騎馬隊道」 です。  これは、旧・騎馬隊敷地の西に張り付いた道なのでそう呼ばれるとがあったのですが、「坪」 の中央を選んで引かれたと理解できます。

  少し高度な判断では、 現・岡山大学(津島)の「北団地(津島中三丁目)」 の西辺と東辺のラインが不可解です。  西辺は、20~25m西に張り出されたことは立証できると考えます。  東辺は、そのままと言えないことはないのですが、その100m東の状況を勘案すると、ここでも10~15m東に張り出した可能性は残ります。  岡山大学に移行して以降、往時の 「鉄条網と枳殻を擁した土塁」 から 「ブロック塀」 に変えられた経緯などもありますが、逆にバス道のために一部分割譲した例もありますが、それらを復元してもここに書いたことは大きくは修整されません。

  軍用地でしたから、敷地の角は凸角だけでなく、凹角が設けてある・・・とは、言い伝えられていることですが、そのような地取りはこの地域で4~5箇所見受けられます。  その構造のために、従来のラインを敢えて崩したと理解できるところはあります。  現・農学部の南辺のライン、正確に言えば、「官用合同宿舎群」 に割譲した部分の南側です。
  一番南のライン(長さ220m程度)は古い畦道を継承していると理解できますが、東の部分/西の部分は、内側に(北側に)引き下がっているように見られます。 [06/02/09 一部字句修正]

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教材 山陽線の踏切

  JR山陽線本線には、旭川と笹が瀬川との間には、踏切(平面交差)は多分三箇所です。  殆んどの部分が、河川がらみの高架状態や、地下道・跨線橋で交差しています。  これらの位置や、名前がある場合には名称が、やはり重要な記憶を留めています。

  東(北)から眺めてゆきます。  最初は県道・美作線が潜る 「南方ガード」 (公式には「新柳川架道」) です。  実はその東にも 「兵団の道」 に繋がるガード (これが「南方架道」) があり、いずれも道は南北に横切りますから、相互の東西距離は約100mです。
  「
通称・南方ガード」 の南西には、平面交差の 「平畦踏切」 があります。  道路と水路が入り組んで複雑ですが、ここは 「メッシュ」 の観点から言えば、道は東西に横切っていると見るべきで、JR津山線に関して述べた 「天神縄手踏切」 のラインの110mほど南の線上です。

  その次は、明治15年[1882年]に造られた記録される 「新・津山街道」 の斜め道と平面交差します。  これは、いまの 「メッシュ」 の議論の対象ではありません。  なお、脱線しますが(列車が ぢゃありません)、この踏切の60~70m南東で、この道は西川と交差しますが、そこに架けられた橋は 「新橋」 の名称で、市内で一番最初の鉄筋コンクリート橋だと言われています。(ODM紀要)  また、この 「斜め道」 のこの辺りの部分は、明治40年代以降には 「師団道」 の名で呼ばれる不幸な時代が続きました。

  話を元に戻します、その次(岡山駅寄り)は、「通称・南北方踏切」 です。  ここは、津山線との共用踏切で、道は東西に走る主要道です。  このラインは 「岡山放送南門前」 の東西道から670m、平畦踏切の南へ230mに位置します。  この辺りで、10~20m南にたわんでいる可能性がありますが、この道が 「里境」 であることには異論はないようです。

  平面交差は、これまでに述べた三箇所ですが、次に遭遇するのは、数少ない 「横断歩道橋」 です。  岡山駅の駅施設の北東の 「気動車区(庫)」 の近くに、東西に横切ることを意図した、自転車さえ予定しない、簡素な橋が架けられています。  これは、西から登り口に至るラインが 「方踏切」 を横切る道から南330mにありますから、このラインの 「代償物」 として作られたと理解されます。  なお、その建設時期はそれほど遡らないかもしれません。  あるいは、筆者の想像で、裏づけはありませんが、線路の東の 「南方小学校」 への通学路を意識したものかもしれません。  調査を要します。

  1960年代以降の自動車主導の道造りになると、ここで考える 「鉄道が既得権に譲歩する」 タイプの越道施設と意味が違ってきましょう。  「53号線/180号線跨線橋」 も意味のないところに建てられているのではありませんが、その議論はパスしましょう。
  この跨線橋の原始の形が、その南約200mのところにありました。  1960年ごろまで(詳細要調査)「萬町(よろずちょう)踏切」 と呼ばれた、『開かずの踏切』 です。  これは、「奉還町商店街」 を西から東に行った先で、江戸期の 「西国街道」 の最重要ラインです。  今では、自転車(含・自動二輪)と歩行者専用の地下道が残っています。 (既得権の代償物です)

  その次の位置には、自動二輪以下用の地下道があります。  岡山駅本体の主要施設の南西の端で、「操車場域」 にバトンタッチがなされる辺りに、それがあります。  細かい議論を今は避けますが、既得権の代償物であることは論証できそうです。  余談ですが、ここでは、用水までが地下道になっている形跡があります。(詳細調査必要)

  自動車主体の巨大地下道の議論を避けて、東に島田本町(二)/西に高柳東町を見ながら南下する道に着目します。  この北入り口は、北に延びる長い道(1km弱)の上にあります。  JR吉備線の 「下伊福 一」 踏切の真南です。  しかも、操車場を越えた南には、更に、900mほどは延長できそうです。  なお、この南北ラインは、西川のラインから測ってみると、およそ1550m(110X14)程度あります。
  地下道の名前は、現地で調べたところ、「二十四ノ坪地下道」 です。  この名称には興奮させられますが、詳しくは別項で述べます。

  更に、(操車場の北側で)西に520mほど行くと、20世紀末の大改修までは歴史的に一番古かった地下道 ; 「野田地下道」 の北入り口(旧)が地図に記録されています。  この入り口は、周辺を見直すと、この付近だけ、20mほど道が東に捩れています。(520+20⇒110X5)  これは、「三門小の西辺と大元小の東辺」を結ぶライン上にあることが判ります。

  「北長瀬」の、今で言えば、「岡山ドーム」 の西を通る地下道は小型車が漸くすれ違える幅ですが、これに関しては、別項で述べます。

  筆者の言いたい結論は、そこそこに断片的に書いていますが、まとめて明文化するのは省略しておきましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教材 自転車がようやく通れる道

  「自転車がようやく通れる、幅の狭い道」 は情報の宝庫です。  そのような道が消し去られなかった理由があるからです。  「踏み切り」 の場合と同じように、「入会権」  のような  「慣行」 の権利が容易に解消できないからです。  長さが約200m、約300mある場合、第一級の教材と言えるかもしれません。  両側あるいは片側が、比較的高い塀で区切られている例も興味の対象になります。
  もし短くても、前後にスムーズに延長接続できる道がある場合には、意味のある道かも知れません。  筆者の認定では、見かけ上の長さが60mだが、1400mほど離れて一本の道に繋がる可能性のある場合があります。

  具体的な例を調べてみましょう。  比較的長いもの3例、極端に短いもの3例を示してみます。
  筆者が着目した順に述べるならば、第一の例は 「岡山放送KK敷地」 の西南角から、南に向かって300m強 続きます。  5~7m横ずれしてクランク曲がりすることを許すならば、更に南に100m強 延長でき、北へは「岡山放送 西辺」、「こどもの森 駐車場中道」 を含めて、250mほど伸ばせます。  この道は、今から50余年前の少年(筆者)にとって不思議な道でした。  他人の田圃の中を、村人が我が物顔に通るのです。
  ここで、蛇足ですが、100m強、300m強 という数値は、条里の 「モジュール」 なのです。  
写真を見たい方は・・・ クリック!

  第二の例は、このラインから東へ230mほど隔たった、南北長約230mの小径です。  狭いところでは、こどもが手を広げると、両側の塀に届きますから、100cm未満の幅かもしれません。  この220m程度の間隔と長さから、「モジュール」 が想像できますが、これが条里の畦の名残かどうかは、実際に見て判断されるのが一番です。

  第三は、

  短い例の第一は、「岡大(津島)北団地の西南角」 辺りにあります。  説明が難しいが、この西南角は凸角でなく、「忍び返し」 というか・・・ 敷地が50m四角ぐらいだけ 「喰いちぎられた」 凹角になっています。  その喰いちぎられた50m四角の真ん中を南北に、短い道があるのです。  今あるだけでなく、50年ほど前は、乳牛牧場すれすれの踏み分け道を郷人が闊歩していました。  25m程度の迂回すれば舗装してあるのに。
  この際、筆者がなぜこの道に拘るかを述べるならば、このプロジェクトで南北基線に設定した 「岡大銀杏並木」 から約220m 西にあること、1.3km先(南)で 「県営グラウンド南口」 に達し、「清心女子大東辺」 に繋がることにあります。  もう一つ重要なのは、軍用地(現在・岡大&県営グラウンド) に抑えられる前夜の明治40年ごろまでは有力な里道だったこと[明治31年陸軍地図参照]によります。

  第二の例は、「商大付属高校(旧・吉備商)」 敷地の西辺南角あたりにあります。  南北に、実質90m程度です。  北側は、現在の53号線に吸収されたと理解されますが、900m 先の 「旧・北富」 地区で水路単独のラインに繋がり、岡大敷地を 600m 程越えて、岡大学裏の 100m 程のラインに繋がります。  南には旨く繋がるラインがないので、これだけでは取り上げるのは無理ですが、筆者としては、2つの傍証を得ています。  一つは、岡大裏のこの地点には陸軍時代から 「自転車以下」 の 「入り会い道路」 が維持されていること。  も一つは、陸軍敷地になる前のM31年地形図に、このラインを南下する道が明確に描かれていることです。 これは、X=+1 のラインと理解されます。

  第三の例は、

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教材 小学校の敷地

  岡山市の例では、旧市内の小学校や統合で閉鎖された小学校は明治の20~30年代に現在地に置かれて、100年を越す例も少なくありません。(沿革としては明治5年の創設を受け継いでいる例もあります)  敷地が大きく変更されていない場合には、100年以上前の周囲の状況を凍結保存していることになります。
  ただし、小学校の敷地境界は、運動場の扱いを巡って拡張された経緯もあるようなので、注意深く見なければなりません。  例えば、大正末から昭和10年ごろの岡山市地図(一般市販品) をみると、[寸法/方位の精度が充分ではありませんが] 今見る姿と異なっている例もあります。 今の姿から過去を推測する立場で読み進んで下さい。

  教材としてみる場合には、
 1) 敷地面積を調べる。  多くの場合110mX180m程度の長方形である。
 2) 敷地周囲の道の構造を確かめる。 長方形の方位はほぼ東西南北である。
 3)周囲の道路を東西/南北に延長する。 少し離れた道につながることがある。
 4)普段使われない門を仮に出ると、まっすぐの長い道が続いている場合がある。

ことで見えて来るものがあります。

  このとき注意する点は、戦災を境に敷地境界が変更されたり、幼稚園/保育園の併設で敷地境界が出入りしたりする例があることです。

  実例で調べてみましょう。  筆者がこれらの点について最初に気づいたのは、「石井小学校」 の場合です。  地図上で、X=-6 のラインを追っていたときに、運動場を南北に横切っていることに気づいたのです。  そこで、現地を見に行きました。  果たして、南北両側に「門」 が設置されていました。  事実上開かずの門のようでしたけれど。
  敷地境界は、多分戦災の影響を受け、道路拡幅の煽りも被っているようですが、基本的には 「ひと坪と2/3」 のサイズで、南北の辺が 「坪境」 になっているように見受けました。  西辺は、近年の道路拡幅と、その前のプール設置で、改修されている可能性があるので、改めて検証する必要があります。  西辺が現在坪線上にあるという結論に導くのは無理でしょう。

  他の例は、「伊島小学校」 にあります。  石井小学校の例を得て、次に検証したのがこの小学校です。  地図上では、「1坪 2/3」 ルールと、「2~3辺が坪境に囲まれて居る」 タイプでした。
  筆者自身見慣れている積りの敷地ですから、それで安心していましたが、後日、実地踏査をしたところ、「石井小」 と同じように、「運動場を横切る「坪境」の両側に「門」を設置」 のルールまで同一でした。  加えて、敷地北辺の一部には、隣地との間に幅1m強、長さ50m程度の 「多分誰のものでもない土地」 が化石化して保持されていました。

   現場の写真に興味のある方は、クリック![準備中]

  「旧・出石小学校」 の例も判り易いかもしれません。  この文を執筆している時点に、「再開発」 の槌音が響いていますが、半坪の 「公園敷地」 を挟んで 「西川」 の西川に貼り付いた形で立地していて、幼稚園の部分を含めて、「1坪半 サイズ」 であると理解されます。  この、併せて2坪分は 「坪境」 に囲まれていると理解されます。

  「三門小学校」 の例は、敷地が南北に長いけれども、ほぼ同じルールに従っています。  なお、この小学校は、昭和28年[1953年]のスタートで、明治以降の開発を経験した後に残った田園に立てられたと理解される例であることは注意を要します。
  同じことは、新制中学校としてスタートした 「中学校」 のいくつかでも言えることです。  判りやすい例は、往時、街区の中に建てられた 「桑田中学校」 です。  結論的には、この敷地は 「2坪分」 の中にスッポリ納まっているように見受けられます。
  話の逸れついでに、「石井中学校敷地」 にも触れます。  この敷地も(現地を踏んでいませんが)「1坪2/3」 にスッポリ収まっているようです。

  「旧・南方小学校」 は、ほぼ同じルールで語れますが、2~3の理由で要注意です。  まず、直近の敷地は東西に読み取れますが、戦災前には南北敷地であったようです。  また、分離・創立が大正12年[1923年]で、既に街区として開発されていたであろうことはメモしておかねばなりません。  しかも、その 「街区」 は江戸期の 「番町創設」 の影響がここまで及んで、『南北道の間隔に関して、「109m程度のゲージ」 が変更されている可能性』があるのです。

  「旧・弘西」、「旧・深柢」 の場合は、江戸期の街区の中にあって、東西のモジュールに関して、「109m程度のゲージ」 が変更されている可能性があります。  が、これらの敷地についても、東西の道路に関しては、「坪境」 を維持しているように思われます。    

  ここまでに判ったことを総合すると、次のことが言えます;-

  石井小と三門小の北辺はともに同じラインに乗る。
   (三門小北辺と石井中南辺は、この同じ道に接する。
    また、石井中の西辺と三門小の東辺は共通ライン。)

 石井小の運動場を横切る南北ラインは桑田中の西辺を通る。
 旧・出石小(公園も含めた敷地)と旧・南方小(戦後敷地)は西川ラインに接する。
 旧・深柢小の南に貼り付く商店街の南辺(西大寺町筋)と桑田中北は同一線上。

 南の方まで拡張するのは問題かもしれないが、「大元小敷地」 の東辺は
   石井中西辺と三門小東辺の(共通の)ラインと繋がる・・・ ことも言えます。

それぞれの敷地がメッシュ構造の中に埋め込まれていることがわかります。

  もう一つ、蛇足を付け加えます。  小学校区/中学校区の境界には、重要な情報が埋め込まれています。  昔の大字/村/郡市(郷) などの境・・・ つまり、古代の豪族の勢力圏境界を遺している場合も少なくないのです。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教材 踏み切り

  結論を先に書きます;-

  筆者が、この作業を始めて間もない頃に、鉄道の 「踏み切り」 が重要なメッセージを秘めていることに気づきました。  既に指摘している人があるかも知れませんが、筆者にとっては、「新発見」 でした。  「踏み切り」 は、往々にして、その名前に古い記憶を凝縮しています。  また、存在自体がある主張をしています。
  
ここでも、筆者の提唱するる仮説をズバリ書けば、『踏み切りは、鉄道と言う闖入者が、先住者に対して譲歩を余儀なくされた痕跡である。』 と言えそうです。

  教材としてみるときには、
 1)
 「踏み切り」 の名前を調べる。  名前が示す由来を調べる。
 2) 踏切の間隔を調べる。  道路と直角交差するときは、単純な間隔、
   
直角交差しないときは、平行な道路の間隔を調べる。
このような作業で見えてくるものがあります。

  ここでも、筆者にとっての初体験の話から始めます。  このWebや、その基となるWebの内容や 「古代メッシュ」 探索の作業全体の基準線は、『岡山放送KK南の東西の道』 であることは何度も書きました。  この東西ラインが JR津山線(明治31年開通・中国鉄道) と交差する踏切には、『農事試験所』 の名前が残されています。  岡山放送と、その北の 「こどもの森」 が県の農事試験所(農業試験場)の跡地だからです。

  その南には、『天神縄(手)』 の名前が残されていて、そのことは少年時代から知っていることですが、今回の調査で特別な意味が判ってきました。

  「nouji32.jpg」をダウンロード    「tenjinnawa.jpg」をダウンロード

  これらの踏切はほぼ南北に並んでいますが、実距離は371mあり、道路の南北間隔で測ると、335m程度です。  ここでも、「109mゲージ」 が見えてきます。  この二つの踏み切りは自動車がようやく通れる自動化踏切です。

  JR津山線に関しては、「農事試験所踏切」 の北約160mに、事実上閉鎖された、遮断機さえない 「踏越え道」 が残っています。  これについては現地探査をしていないので、今は論じません。

  その北は 「法界院駅」 で、その北端に 「法界院(駅)踏切」 があります。  市内バスが交差し自衛隊車輌が往来する重要道ですから、遠い昔は踏切番がいました。  この南北位置は、基準ラインの550m弱北に当たります。   その直ぐ北に、これは筆者にとっては05年11月の新発見だったのですが、「後田堀」 の踏切 がありす。  遮断機もなく、今では自転車の通行さえ阻む 「踏切の化石」 です。  その北には、「第一新堀踏切」 があります。  自動車通行可の自動遮断です。  この2本の踏切の、「法界院踏切」 からの南北距離は、110m、320m です。

  殆んど言いたいことの根拠が出揃ったと思います。  「天神縄手」 の南東には、JR 山陽本線の踏切 「平畦」 があって、その位置・名称も重要なキーワードなのですが、今は触れません。

  ここで、JR吉備線に眼を転じます。  吉備線の岡山駅近傍は近年高架になりましたが、「三門駅」 までの間に、6つの踏切があります。  東から、「二ノ橋」、「伊福」、「伊福 一」、「伊福 」、「宮前」、「三門東?」 であったと記憶します。  それぞれの名称にも伝承的な意味がありそうですが、今は位置関係に目を向けましょう。  後の四つは、いずれも道が南北に横切るタイプと言えますが、それらの道の相互間距離は東から、およそ110m、110m、220m となっています。  岡山駅寄りの二つは、今考える意味では、東西道が横切るタイプで、その2本の距離は約110mです。 「伊福」 のラインを西に進むと 「石井中学校」 と 「三門小学校」 の間の道に至り、東に進むと 「石井小学校」の北辺に行き着きます。
  なお、その後の調査で、岡山駅の直近に「下石井」踏切があることが判りました。  これも、重要な南北線の上にあります。  また、三門駅の西が「三門駅西」、その西が「関西高校前」でこれらも恐らく、意味ある南北線上にあります。

  以上長々と述べてきましたが、僅かな例外を除いて 「109mゲージ」 に満ち満ちているのです。  踏切道は、多くの場合、鉄道以前から認知度の高かった道ですから、今の場合、「ご一新以前」 から有力な道であった可能性は高いのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教材としての条里制 緒言

  「条里制」 と振りかぶると、題材が大きすぎて、小学校や中学校の教材には扱い難いと思われます。  けれど、私たちの町を眺めなおす視点では、面白い題材を提供してくれるように思います。

  筆者が、最初に 「再発見」 したのは、「踏切」 でした。  踏み切りに視点が向くと、用水に架けられた 「橋」 が気になります。その後に気づかされたのは、「小学校の敷地」 でした。   それ以前に、中学生の頃から、意識下に注目していたのは、「自転車がようやく通れる狭い一本道」 でした。
  これらには、それらが創られたときの、そして更にその昔の、古い記憶が塗り込められているのです。

  ここでは、岡山市北部 (昭和30年代後半 [1960前後] の意味の市街地北部) を例に選んだローカルな話になっていますが、県都やそれに準じた都市では、ある程度共通して言えることだと思っています。

  できるだけ、筆者の結論を押し付けないことを心掛けた積りですが、論旨を鮮明にするためには 「独断と偏見」 が含まれているかもしれません。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)